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収集の歴史

当館は、アンリ・チェルヌスキという傑出した人物の収集活動を引き継ぎ、パリ市と中国ほか東洋の各文化圏との関係を築くという上で、パリ市立の美術館のなかでも独特の役割を担っています。

ミラノに生まれたアンリ(エンリコ)・チェルヌスキ(1821-1896)は、政治活動によって祖国の独立に貢献したものの、1848年の対オーストリア戦争におけるイタリアの敗北と共和政への移行の失敗に直面し、1850年フランスへ亡命することを余儀なくされます。フランスでは経済学者として、さらに銀行家として活躍し、第二帝政(1852-1870)の末期には相当な資産を築くに至ります。熱心な共和主義者であったチェルヌスキは、第三共和政の設立に積極的に加担しました。1870年に樹立した革命政府は、しかしながら弾圧による流血の後まもなく崩壊し、危機を逃れたチェルヌスキは、友人の美術批評家テオドール・デュレ(1838-1927)を伴い、1871年9月から1873年1月まで東洋周遊の旅に出ます。まず日本で、そして中国で購入された5,000点近い品目の大半は銅製品です。チェルヌスキの帰国後、収集品は数ヶ月間パリの産業館に陳列され、当時の知識人のあいだに日本文化への関心を呼び起こしました。

同じ頃チェルヌスキは建築家ウィリアム・バウエンス・ファン・デル・ボイエン(1834-1907)に設計を依頼して、ヴェラスケス大通りに私邸を建造します。この建物は、チェルヌスキの死後、彼が収集した東洋美術コレクションとともにパリ市に遺贈されました。チェルヌスキ

Salle du Bouddha vers 1880

 

チェルヌスキの秘書であったウジェーヌ・ブノワ・コースが邸宅を美術館に改装すべく尽力し、1898年10月26日、チェルヌスキ美術館は開館しました。

1905年から1932年まで館長として所蔵品の保管に当たったアンリ・ダルデンヌ・ド・ティザック(1877-1932)は当時の研究者たちと連携し、また1922年に発足した美術館友の会の援助を受けながら、遠来のエキゾチックな物品を陳列した私邸を、文化財保護を目的とした近代的な組織へと改変しました。彼はまた美術館の収集方針を中国古代美術(その起源から13世紀の元の時代まで)の美術品と考古学資料に転換します。この方針を引き継ぎながら、後継者たちは極東の他の文化圏(日本・ヴェトナム)へ関心を、主に企画展を通して強く表明し続けてきました。1933年から1952年までルネ・グルセ(1885 -1952)、1952年から1982年までヴァディム・エリセエフ(1918-2002)、1929年から1994年までマリー=テレーズ・ボボ(1929-2011)、1994年から2011年までジル・ベガン(1946-)、そして2011年からクリスティーヌ・清水(1950-)が、チェルヌスキ美術館を指揮してまいりました。

購入と寄贈によって、当館の収蔵品は拡張の一途をたどり、現在ヨーロッパ屈指の中国美術コレクションを誇るに至ります。モンソー公園に隣接する建物は展示空間としては小規模ですが、当館はそこで1911年から今日に至るまで企画展を通じて東洋文化の様々な側面を紹介し、常に国際的な注目を集めてきました。